【2018年2月15日】芸術は日常生活にそっと入り込む

 

 

本日の朝日新聞デジタル版から。
米国では自ら所有しているかどうかにかかわらず作品を守る権利が芸術家に認められており、この権利が侵害されたと認定された。

 

 

 

これが金沢市だと、廃ビルに勝手に落書きをしていく人などいませんし、もしいたとしても、その落書きを塗り潰されて訴えたりはしませんし、仮に訴えたとしても、勝訴するなど、あり得ない話です。
ところが、これら全ては実際にあったことです。やはりニューヨークですね。

 

 

 

 

ところで、ニューヨークでここまで庇護される「芸術」は、人間にとってそんなに大切な行為なのでしょうか?
私は「YES」と自信を持って言えます。人間にとってアートは、単なる趣味や鑑賞物ではなく、人々の生活に深く密着しているものだからです。
何故なら、今私たちの身の回りにあるもの。住んでいる家や乗っているクルマ、着ている服や愛用のマグカップ…。その全ては、元を辿れば、無数の芸術的行為から出発しているからです。

 

 

 

私たちが、自分の着る服を選ぶ時。機能とか値段とかの折り合いをつけて、最終的には「好み」で決定するのではないかと思います。人は「好み」に反する服を着ることは、ものすごいストレスを感じます。
極端な例えですが、私には、ピンク色のT-シャツを着て街を歩くことは、どうしても出来ません。でも、世の中には、そんな格好で歩く方はたくさんいらっしゃいます。
好きなコーヒーを飲むマグカップも、ゴテゴテしたアンティーク調よりもシンプルな単色の方が、美味しく飲めます。でも当然、逆の人もいます。

 

 

機能重視とされるクルマですら、最終的にお金を払うのは「気に入ったクルマ」にです。
でも「クルマなんて、乗れれば何でもいいや」と仰る人もいます。好みや収入に関係なく安い軽四に乗っていたりしますが、そんな人はそもそも、「たかが移動手段のクルマに、お金かける必要なんてない」という価値観が、どこかで生まれているんです。田舎暮らしなので必要ですが、乗ること自体が「嫌い」なので、嫌いな行為には出来るだけ無関心でいきたいと。関わりたくないと。

 

 

そうやって、些細な日常生活の一つ一つを検証していくと、つまるところは、何事も「好き」「嫌い」で最終決定されています。私たちは、意識してにしろ無意識にしろ、「好き」に寄り添って生活している訳です。
そして「好き」と言うのはイコール「より自分らしい」と感じることです。より「自分らしい生活」を営みたいという人間の本能こそが、芸術的行為の出発点です。
いわゆるアーティストたちも、元を辿れば、日常生活での「好き」の選択を突き詰めていった結果、選択では満足できず、自分で創り出すようになったんだと思います。

 

 

一軒の服屋しか知らなかったら、その服屋の服の中からしか選べないけど、100件知ってたら、より自分の好みの服を選べます。更に服をつくる技術があったら、細かいところまで拘って、自分の好みの服を作れます。

私が芸術的行為を肯定するのは、芸術活動や芸術鑑賞することによって「自分らしさの範囲がより明確になる」からです。

「自己意識」を持った動物である人間は、「自分らしく生きる」ことが、一番のしあわせなんじゃないかなと思います。

 

 

 

その昔、ジェームス・ディーンやマーロン・ブランドがT-シャツを着て映画に登場した時、良識ある?大人たちは「下着だ」と批判したそうです。ビートルズの長髪 (笑) も、大批判されていたそうです。その音楽も「騒音」と。
今やT-シャツは、老若男女誰もが普通に着ている普段着ですし、マッシュルーム・カットなど、誰も長髪で不潔だと思わないし、音楽は「20世紀を代表する音楽」と、広く認知されています。その後のロックなどのポップ・ミュージックに与えた影響も計り知れません。

 

 

すぐれた芸術は、人の独自性を肯定して普遍化させます。そんな表現に触れてピンときた一般の人や、一般企業は、自分も真似して開放感を味わったり、普及させるべく、アレンジして商品化したりします。
T-シャツも長髪も、ギターの音が電気で歪んだロック・ミュージックも、今や誰もが共有して、日常生活に馴染んでいます。
私の使っているマグカップのデザインも、多分一般企業のデザイナーさんのデザインですが、大元を辿れば、どなたかのアート作品に影響を受けたデザインなのかもしれません。
そして私の作った曲も、辿っていけばどこかでビートルズに突き当たるのかもしれません。

 

 

 

ニューヨークの落書きも、見ても「何だこんな落書き」と、ピンとこない人の方が多いと思います。だけどもしかしたら、その中のごく一部は、巡り巡ってそんな大多数を占める一般の人々の生活の中にも、そっと入り込んでいくのでしょう。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

今回は大風呂敷を広げすぎたような気もします。このテーマについては、またそのうち書くかもしれません。