【2018年6月2日】聴き返したアルバム その4 〜 Utada「エキソドス」

CDを整理していたら、Utadaさんの「エキソドス」(’04年) の歌詞カードが出てきました。Utadaさんは、宇多田ヒカルさんのアメリカでのアーティスト名。

 

 

この歌詞カードは、通常の歌詞カードのような歌詞とその対訳の他に、UTadaさんと訳者の新谷洋子さんとの対談や、音楽評論家の鹿野淳さんによるライナーノートや新谷さんの対訳後記などが載っている、何と30ページにも及ぶボリュームのあるものです。

 

 

当時この歌詞カードを読んだ記憶がないことから、おそらく音源しか興味がなかったんでしょう。今読み返すと、特に対談は「日本語で歌われることと英語で歌われること」について、実に深い考察が話されていて、このところ私が考えていることにも関係あることも多く、とても興味深く読めました。
まず、何故、日本語でも歌詞が書けて単純に自身の英語の歌詞も日本語に訳せる筈のUtadaさんが、わざわざ他者に歌詞を対訳させたのか、について。

 

 

「私の日本語の詞が好きだという人たちが従来の歌詞と同じ感覚で読んでしまう。かといって純粋な歌詞ではないから、絶対に日本語の詞ほどよくはない。そこでがっかりされても不本意だし、言語が違えば作風も変るんだから、じゃあきっぱりとほかの人にお願いしようということになったんですよ」

 

 

とのこと。私が引いたアンダーライン部分「言語が違えば作風も変わるんだから」が、興味深い言葉です。どうして変わるんでしょうか?同じ人の表現なのに。実際に日本語対訳の歌詞は翻訳調の言い回しで、いかにも洋楽の対訳という感じです。
歌っていることの本質は、宇多田ヒカルさんと同じく「愛と孤独」なのですが、Utadaさんになると、観念的な言葉ではなく、直接的なセクシャルな言葉でも歌われています。

 

 

「英語だから全然そう思わなかったんですよ(笑)」

 

 

対談の焦点もそこに当てられていて、「エッチになった宇多田ヒカル」について、極めて知的な二人の女性が熱論を交わしています (笑)。面白いのは、この他人事感というか自分の創作についての距離感です。
そして、「言語が違えば作風も変わるんだから」について。

 

 

「…第三者の視点で『彼女はこういう人生を生きている』という風に歌うのは、日本語だとうまくいかない。基本的に日本語は、楽器が極力少ない薄いオケに乗せて『私はこうで、ああなんです』とわりと抽象的なことを直接言うほうが向いてるんだろうな。だから何がどう違うのか分からないけど、言語によって言葉の作用の仕方が全然違うんですよね」

 

 

 
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話は変わりますが、私が最近レコーディングした3曲「ひみつの言葉」「焚き火」「2018年、ニューヨークの落書き」、知人数名に聴いていただいたところ、口を揃えたように「『焚き火』『ニューヨーク〜』は、歌詞カードを読みながら聴かないと、何を歌っているのかよく分からない」という感想をいただきました。

 

 

本人に言う言葉なので、これでも気を遣って柔らかく言っていると思います。実際は「???」という感じではなかったかと、私もそう言われて、人の曲を聴くように自曲を聴いてみて、なるほどと思いました。
「焚き火」は、ボブ・ディランさんの説話的な歌詞を村上春樹さんの「海辺のカフカ」のような二重構造で表現 (そして、曲メロ自体も合わせて二重構造になっています)、「ニューヨーク〜」は、ビートルズ「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のように実際の出来事をモチーフに、そして「ひみつの言葉」は、J−POPマナーの普通の歌詞を、それぞれ意識して書いたのですが、「ひみつの言葉」のみが、聴いていて、言葉が普通に頭に入ってきます。

 

 

「ひみつの言葉」のみ、Utadaさん言うところの「私はこうで、ああなんです」の構造です。あとの二つはどうも実験というか企画倒れというか、やりたい事に私自身の能力がついていけなかったというか、そんな感じでしょうか。

 

 
私の好きな業田良家さんのマンガ「ハッピー先生最後の授業」の中に、ハッピー先生の名セリフ「こころざしの高さが君の才能なんだ!!」と言う言葉があります。何とも励まされる言葉です。大きな構想を描くことは、たとえちゃんと形にならなくても大事なことです。私もそのうちもっと分かりやすく書けるようになるかもしれません。

10年以上前のUtadaさんの言葉はとても勉強になりました。

 

 

 

 

歌詞カードとCD。