【2018年6月14日】前回の続き 〜 英語教育の必要性は?

前回はプログラミング教育の重要性について終始してしまいましたが、前回記事のもう一つの方、英語教育について。

 

 
私論ですが、英語を子どもの頃から馴染ませることについては、私は大賛成です。だけど理由は、グローバル社会や企業に対応出来るため、ではありません。
小さい頃から多国語に馴染むということは、「同じ事柄について多国語でも考えることが出来るようになる」事だと私は思います。それこそが重要ポイントです。

 

 

グローバル社会云々に関しては、おそらく近い将来においてAIがもっと発達・普及し自動翻訳のプログラムが進化して、別に英語教育を受けなくてもコミュニケーションに関しては問題なくなるのではないかと、実は思っています。
そして実際にそんな社会になり、頻繁に英語圏の人々とコミュニケーションをとるようになると、言語の壁の次なる壁として「思考回路の壁」が立ちはだかるのではないかと。

 

 

言葉というのは、単に翻訳しただけでは伝わるというものではありません。背後にある歴史や文化などが、単語一言ひとことに凝縮されています。
小さい頃から他国の言葉を学ぶ(=他国の言葉で考える)事によって、自分自身の日本・地方、のローカル性を無意識のうちに対象化出来るのではないかと。無意識のうちに二つの視点で物事に触れる事が出来るので、より多面的に考えることが出来るようになるのではないかと。そう思います。

 

 
6/1のブログ「聴き返したアルバム その3 〜 Utada『エキソドス』」(←クリックで読めます) でも触れましたが、宇多田ヒカルさんの日本語の歌詞と英語の歌詞とでは、その表現がまるっきり違ってしまうというのも、また、Utadaの歌詞を自分で翻訳しなかった(出来なかった)事なども、彼女が小さい時から日本語にも英語にも馴染んで、どちらでも考える事が出来たからです。(と勝手に思っています)

 

 

つまり、どちらの文化にも深く触れていた訳です。面白いのは。メロディまでもが2ヶ国語を操るように、違う回路を通ったように奏でられている事です。言語が違うと思考回路もそれだけ違うという事です。
宇多田さんは「言語が違えば作風も変わるんだから」と一言で仰っていますが、その水面下では、実に多くの、いろんな試行錯誤があったのではないかと、勝手に推測します。(なかったりして…)

 

 

 

凝り固まった思考回路で何も考えずに一生を終えるよりは、不器用ですがいろんな疑問を持ちながらも手探りで自分の進む道を模索し続ける、そんな充実した実りある人生を送るには、考える言語は多ければ多いほど良いのではないかと思います。そして私にとって音楽は、そんな言語 (思考ツールでありコミュニケーション・ツールでもあります) の一つです。

 

 
下手にいろいろと知識を詰め込むよりも、子どもたちには是非プログラミングと英語を。その分、理科と社会はホントに薄っぺらくでいいので。(というか、興味のある子どもだけでいいかも)