【2018年8月31日】先日の続き 〜 歌は誰に向けて歌うのかーー再びスピッツを聴いて

先日の続き。それで遊びに行った際、出来たての「花火」をCDに落として持って行きました。

実は暑中見舞で3曲入りのCDを送っていたのですが、何となくですが、暑中見舞で送った曲よりもこの「花火」の方が気に入ってもらえるような気がしたので、遊びに行く日に間に合うように急いで完成させました。

以下、「他者に向けて歌うこと」について。

 

 

 

以前、大概の (特に日本人の) ミュージシャンは、売れるとその路線を継承していくので、それがイマイチ面白くないといった趣旨の文章を、このブログに上げた事があります。でも最近は、それは否定的に考える事ではないのではないかと、思うようになりました。

 

 

単に売りたいから拡大再生産するのではなく (そんな方々もいますが)、自分 (たち) の、こんな風な曲調が好きな人がちゃんと存在している、ならば、そんな人たちに向けて自分たちの歌をちゃんと精度を上げて歌っていこう、という事なんじゃないかと。つまり何十万人もの顔がちゃんと見えているという事です。

 

 

そう思いはじめたのは、友人に借りたスピッツのベスト・アルバムを聴いてからです。(今月6日「スピッツはエヴァーグリーンです」) ←クリックで読めます。

 

 

スピッツの普遍性は、まさしく自分たちの音楽を好んで聴いて下さる方々の顔が、しっかりと見えているからこそ奏でられている音だという気がしました。

自分たちの音楽を信頼して聴いてくれる人々の為に歌われる歌は、だからこそ、ともすればマンネリに聴こえたりしますが、聴き込むとそうでない事が、よく分かります。

 

 

 

個人の趣味で演っているなら、それこそ好きな事をしていればいいですが、他人の心に入り込むような歌を作る時は、時にはエゴが邪魔になると感じます。

「ポップ」な表現というのは、そのようなものではないかと。