【2019年2月16日】前回の続き 〜 「今」「このひと時」が大切 ーーブラック・ミュージックや、星野源「Pop Virus」など

先日、謡曲・敦盛について書いていて、以前に書いた、ブラック・ミュージックのタイム感覚をふと思いました。

 

 

いつ書いたか忘れたので要約すると、クラシックなど白人のタイム感覚は、始まって→展開して→終わっていく、平たく言えば、そんな流れで曲は動きます。物語のストーリーのようです。J−ポップや歌謡曲もそうです。

ところが、アフリカの音楽やファンク・ミュージックなどは、始まってからずっと同じパターンの繰り返しです。そして、いつ終わっても楽曲の構造的には何ら問題はありません。

 

 

何となくの仮説ですが、ブラック・ミュージックは、過酷な大自然の中で生き抜いてきたアフリカンたちが、ひとときの休息に、「明日をも知れぬ命、『今、このひと時』を存分に楽しみたい」と、音楽を奏でる。そんな、お祈り的な思いの表れのような気がします。

 

 

それは「平和な今宵の『今、このひと時』が、永遠に続きますように」という祈りです。ジャワ島のガムランという音楽も、そんな風に聴こえてきます。だから、いつ果てるともなく長い曲が多い。そして、終わらせようと思えば、音楽的手続き (コーダ等) を踏む事もなく、すぐにでも終わらせる事が出来る。実際はどうなのか分かりません。そう感じるのは聴いている限りです。

そんな音楽が、退屈に聴こえるか陶酔出来るかは、それこそ人それぞれです。

 

 

そう感じてしまうと、クラシック的な、起承転結のある音楽は、私にはどうもまだるっこく聴こえてしまいます。明日は必ず来ると信じている人の音楽、という感じです。これは、良い意味でもあります。白人的楽観主義というか、ポジティブ思考の人種の音楽ではないかと。

 

 

 

いつからか私には、ブラック・ミュージックのビートが馴染んでいます。何となく馴染むから聴いていたのですが、あらためて考えてみると、私の思想が、「今、このひと時」的だからなのかもしれません。音楽は思想そのものだからです。たかがビート、されどビート、です。

 

 

 

星野源さんの最新作のタイトル・トラック「Pop Virus」の一節です。

 

 

今の中で 君を愛してる

 

刻む 一拍の永遠を

 

 

時間は常に「今」しかありません。今が全てで、今が永遠です。そしてこの曲、音も隅々までブラックなノリですね。きっと星野源さんも、「今が全て」派なんだと、勝手に思っています。

 

 

 

所詮「人間五十年 下天の内をくらぶれば   夢幻の如くなり」です。そんな儚い人生のうちの「今、このひととき」が、夢や幻ではなく、たしかな生のひととき、に感じられるように、音楽を聴き続けていけたらなあと思います。