【2019年3月11日】スティーヴィー・ワンダーの豊かなインナーワールド「シークレット・ライフ」を聴き返して 〜 内面世界の充実を考える

そもそも楽曲に自然音を入れてみようと思ったのは、数日前に「メロディの自由度が広がるメロディック・マイナー・スケールの魅力と、スティーヴィー・ワンダーの楽曲たち」を書き、スティーヴィーさんのアルバム「シークレット・ライフ」(‘79年) を紹介した後、実際に久しぶりにアルバムを通して聴いて、あらためて感銘を受けた事がきっかけです。

 

 

このアルバムには、いろんな現実音がサンプリングされています。虫が花の周りを飛び回る音、雨や雷の音、水が跳ねる音、子どもたちの笑い声、大人たちの会話…。それらが、単なる効果音としてではなく、ポップな楽曲の一部として普通に馴染んでいます。決して難しくは聴こえません。

そういう雰囲気を、自分の楽曲に取り入れてみたいなあと思った訳です。

 

 

 

「シークレット・ライフ」は、植物の生態を追いかけたドキュメンタリー映画「The Secret Life Of Plants」のサウンド・トラックとして、’79年にリリースされたアルバムです。

 

 

原作は、作家のピーター・トンプキンスと生物学者のクリストファー・バードの共著による『植物の神秘生活~緑の賢者たちの博物誌~。その内容は、『植物は感覚を備えていて、人の感情(愛情や威嚇)を敏感に感じ取り、反応することができる。音楽にも反応できるばかりか、人間とコミュニケーションすらとることができる。』という理論を当時の最新式の機器を駆使して、科学的に証明しようというもの。

 

音楽を聴かせたらよく生長し、無視するとその植物は枯れやすくなったり……また、ウソ発見器の電極を接続された植物の葉が、周囲の人間の感情や意図に電気的反応を示す実験を紹介したり……などといった話が満載なのだとか(ちなみに、この原作は今でも入手可能。600ページにもわたる大部の著書なので、かなり読みごたえはありそうです。)。

 

ーースティーヴィー・ワンダーのファンブログ「WONDER HOME OF MUSIC」より引用

 

 

 

世の中には動物を飼ったり植物を育てたりしていらっしゃる方々が、数多くいらっしゃいます。私の知人にもやはり何人かいらっしゃいます。犬を数匹も飼っていらっしゃる方、観葉植物に囲まれて暮らしていらっしゃる方。

 

 

そんな方々は、皆一様に、動物や植物には自分の気持ち (愛情) がちゃんと伝わると仰います。伝わるから、犬はなついたり、植物はきれいな花を咲かせたりするんでしょう。そこは、現実世界の無味無感な、形だけのコミュニケーションは通用しない、真のコミュニケーションの世界です。心にもない社交辞令とかで何とかなるのは、人間社会だけではないかとすら思います。

 

 

難しそうな本・映画ですが、単純に、植物への愛を表現した本・映画だと受け取れば、面白く読めそう・観れそうだと感じました。

 

 

 

ところで、視力の無いスティーヴィーさんが、どのようにしてこの映画のサントラを制作していったのでしょうか。

想像するに、点字で原作やそれぞれのシーンごとの脚本を読み、そこから、自身の想像力を駆使して音を組み立てていったのだと思います。

いろんな音楽スタイル (ブラックのみならず、民族音楽、ジャズ、クラシック …等々) や、当時の最新機材で現実音のサンプリングまでも駆使して作ったこのアルバムは、視力のある私たちが毎日見ている世界よりも、遥かに豊かで明るく鮮やかな世界を見せてくれます。

 

 

「シークレット・ライフ」をあらためて聴き返して思う事は、我々が日々目に見ているモノ・コトなど、一種の幻想に過ぎないのではないかという事です。世界は、心の中にある、という事。

私たちは、視覚によって世界と繋がっていると思っています。目が見えなくなったら、真っ暗闇の世界にポンと放り出されたような気分になるような気がします。 でもきっとそうではないんでしょう。目を閉じてこのアルバムを聴くと、目の前に豊かな世界が広がる、それを見る (聴く) 度にそう思います。

インナー・ワールド (内面世界) の充実こそが、しあわせに生を全うするキーであると確信します。

 

 

 

 

私がこのアルバムを聴いたのは、大学生の頃。ロックだけでなくいろんな音楽を聴き始めた頃です。カセットに録音して、寝る前にヘッドフォンで毎日聴いて眠りに就いていた時もありました。

 

このアルバムは当時世に受け入れられず、セールス的には振るわなかったそうです。そんな事もあってかもしれませんが、スティーヴィーさんの次作からは、従来のポップス/ファンク路線に戻ってしまいました。

 

この路線のアルバムをまた作らないかなあと思う、世のスティーヴィー・ファンは、私だけではないと思います。