【2019年6月2日】自己セラピーは他者をも癒す 〜 ムーンライダーズを聴いて

知人に借りたムーンライダーズのCD3枚、「ザ・ベスト・オブ・ラック」(中期のベスト・アルバム)「最後の晩餐」(‘91年)「A.O.R.」(‘92年)。特に「最後の晩餐」「A.O.R.」の2枚を聴き、本稿のタイトル「自己セラピー」を感じました。

 

 

ムーンライダーズは、私の少年期に熱心に聴いていたニュー・ウェイヴ期のバンドでしたが、何故か「マニア・マニエラ」一枚しか聴かずに、自分の中ではスルーしていったバンドです。

最近知人に「ムーンライダーズいいよ」と言われて、借りて聴いてビックリ。変わった音を奏でる、カルトなバンドというイメージしかして持っていませんでしたが、あまりにも赤裸々な言葉が痛々しい曲が多くて、認識を改めた次第です。

 

 

 

「最後の晩餐」「AOR」聴いて思い出したのが、ムーンライダーズの鈴木慶一さんと、YMOの高橋幸宏さんのユニット、ビートニクスの「出口主義」(‘81年) というアルバムです。

ノイジーで病的な音がすごく魅力的に聴こえて、高校生当時の私は、YMOソロ関連だと、このアルバムと坂本龍一さんの「千のナイフ」(‘78年)「B-2ユニット」(‘80年) の3枚をよく聴いていたように憶えています。

(前回記事に繋げて言うと、「千のナイフ」で書かれている坂本さん自身のライナーノーツも、大変素晴らしいです)

 

 

当時の言葉で言うと「ネクラ」なこの3枚でしたが、坂本作品は、厳しく・安易に人を寄せ付けない雰囲気の音で、「出口主義」は、甘暗いというか、ロマンティックな暗さでした。当時は、それは高橋幸宏さんの個性だと勝手に思っていたのですが、実は鈴木慶一さんの個性でもあった訳ですね。30数年を経て分かりました。

 

 

「最後の晩餐」「A.O.R.」は、「出口主義」のようなあからさまに暗い曲はなく、ベスト盤のように派手な曲も少ないのですが、淡々とした技巧的な音で、余計に生々しい言葉が染みてきます。

どんな状況下で作られていたのか気になって、ウィキペディアをみたところ、この2枚を制作する少し前に、鈴木慶一さんは離婚されていました。

鈴木さんは「A.O.R.」で殆どの曲の作詞してをしていますし「最後の晩餐」でも、3曲作詞されているのですが、その殆どが痛々しい言葉です。

 

 

それで思ったのが、昔から誰ともなく言われている言葉「表現する事は、自己セラピーとして機能する」です。鈴木さんの場合、曲作りです。

心の傷や苦しみは、分かりあえる人に分かってもらえれば、それで癒されます。逆に、知られたくない人には、絶対に知られたくないものです。

 

 

自己慰安的歌曲は、内面の苦悩を直接的に表現するのではなく、その音であったり、言葉の暗喩・比喩等の詩的表現であったり、というオブラートに包むからこそ、安心して発信する事が出来るものです。ストレートだと恥ずかしくて、逆にストレスです。

そして、分かる人には、そんな表現はピン!とくるものです。分かってもらいたい人には、ちゃんと届くものです。実に不思議ですね。

 

 

なので、昔から優れた表現というのは「私はこの人の事がすごくよく分かる」、更には「この歌は私のために歌われている」「この人(作者)は、私の心を分かっている」と錯覚(ある意味、錯覚ではない)させるマジックが生まれるのだと、そう思います。自分の為に作った曲が、時としてそれに接した他人をも癒すのだと。

 

 

 

ムーンライダーズの、特に「A.O.R.」は、そんなマジックが宿っている一枚です。鈴木さんの自己慰安的表現が、辛い別れを経験した事のある一部の人の心に深く届く、そんなアルバムです。大人のアルバムです。鈴木さんはプロ中のプロなので、そう聴かれるのを承知で作ったのでしょうが。ご自身の痛みを芸に昇華させている、そんな趣きを感じます。

分からない人には、単なるAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)に聴こえるところが、ムーンライダーズらしいところですね。

 

 

私は、貸して下さった方の言葉がなかったら、多分気付いてなかったでしょう。ベスト盤→「最後の晩餐」と聴いて「A.O.R.」を聴くと、余計にそう感じます。「A.O.R.」の次のアルバムも聴いてみたくなりました。