そういえば作り始めてからも読んでなかったなあと、自曲「舞踏会」が上がったあとに、無性に芥川龍之介「舞踏会」が読み返したくなりました。曲作りの際は、昔の記憶を頼りにしていました。
ネットを調べると、WEBに「青空文庫」というのがあり、そこで読むことが出来ました。青空文庫というのは「著作権が消滅した作品や著者が許諾した作品のテキストを公開しているインターネット上の電子図書館」(ウィキペディアより) で、無料で作品を読むことが出来るサイトです。
「舞踏会」は、短編小説というより掌編小説で、あっという間に読み終えることが出来ました。だから、国語の教材にも採用されていたのでしょう。
それで一読して一番心に残ったのは、ラストでH老婦人、つまり後年の明子 (主人公) が鹿鳴館での青年将校との思い出を回想するシーンです。
鹿鳴館のシーンは「明治十九年十一月三日の夜」、明子は当時17歳。ラストの回想シーンは大正七年の秋。物語内での喋る口調も老婦人っぽいので、私はてっきり70歳ぐらいかと思って何気に調べたら、老婦人と紹介されながらも、明子の年齢は何と僅か49歳でした。物語そのものよりも、この事実に驚きました。
今現在49歳といえば、男女問わず、仕事・プライヴェート問わず、バリバリの現役です。それが、奇しくもちょうど100年前、1920年に発表されたこの小説では、49歳を「老婦人」と呼んでいます。
気になって当時の平均寿命を調べたら、男性42歳、女性43歳。けれども平均寿命というのは「ゼロ歳児の余命」であり、実際この当時は子どものうちに死んでしまう人が多かった為、この数字はあまり参考になりません。
「当時20歳の人の平均余命」で調べたら、男性39年、女性40年、でした。つまり、無事にちゃんと成人した男女の平均寿命は、約60歳。49歳の明子が老婦人と呼ばれていたのも納得です。
よくよく考えてみるに、当時は社会情勢も不安定で、度々戦争が起こっていたり、大災害があったりで、生きて行くのが大変で、しかもというか、だから短命だった故、人々は今とは比べものにならない濃密な日々を過ごしていたものと、容易に想像できます。今と比べて「死」が常に隣り合わせにあったのでしょう。早送りの人生です。
私は今年57歳になります。100年前だと、冗談ではなくもう棺桶に片足を突っ込んでいる歳です。そんなことを考えていたら、日々の時間が本当に貴重な、天からの贈りもののように思えてきました。
大正時代の人々に比べたら、ぬるま湯に浸かっているような人生かもしれませんが「必ず終わりがくる」という点に関しては、平等です。
「私は花火の事を考へてゐたのです。我々の生のやうな花火の事を。」は、当時の芥川龍之介の心の底からの思いであったのでは。「舞踏会」を上梓の7年後、芥川龍之介は神経衰弱で自死しています。
読みながらそんなことを考えて、次の曲の曲想が浮かんできました。そのうち何らかの形にしたいです。