法事で実家に帰った際、何気にジョイ・ディヴィジョンが聴きたくなり、レコード棚から引っ張り出してファーストから順に聴きました。
ジョイ・ディヴィジョンは、’70年代末に現れて ‘80年にボーカルのイアン・カーティスの死により解散したニュー・ウェイヴ期のバンド。若い頃それこそ耳にタコが出来る程聴き込みました。当然CDでも買い直していて聴いています。
ところで先日は朝から法要でした。この歳になると礼服は結婚式よりもお葬式で着る機会が圧倒的に多く、そんなところにも歳を感じます。
それで、お経を唱えて (聞いて) お参りをして帰路に着いて、家でジョイ・ディヴィジョンを聴いたのですが、聴いていて、イアン・カーティスのボーカルってさっき聴いたお経みたいだなあと、ふと感じてしまいました。
ボーカルは一応ちゃんとメロディを歌っているのですが、そのメロディ自体音域が極端に狭いのと、抑揚が少ないのが大きな特徴です。お経みたいと感じたのは、そんなところからです。
思えば、この頃のパンク/ニュー・ウェイヴの、特に先鋭的と言われていたバンドのメロディ及びボーカルは、そんな読経的なのが目立ちます。PIL初期のジョン・ライドンのボーカルなど、お経そのまま (笑)。そこが、ニュー・ウェイヴの元祖?的音楽性の、ロキシー・ミュージックやデヴィッド・ボウイと大きく異なるところです。
ジョイ・ディヴィジョン (イアン・カーティス) の歌は、メロディやコードが動かず抑揚が少ないからこそ、余計に微妙な感情の動きがダイレクトに伝わってきます。「鑑賞する歌」ではなく「体験する歌」ではないかと。(ロキシーやボウイは「鑑賞」の余地が多いにあります)
お経=お祈り。そう考えると、ジョイ・ディヴィジョン、PIL、キャバレー・ヴォルテール、ポップ・グループ…等は、今思うに、まさにお経のような「祈りの音楽」だったのではないかと。いい音楽を鳴らすのが目的ではなく、音楽は単なる手段だったのではないのでしょうか?
不穏な心を落ち着かせる手段としての歌。混沌としていた時代を映す鏡としての音楽。ジョイ・ディヴィジョンを聴いていると、そう感じます。
ロックが単なる音楽のいちスタイルではなく、様々な可能性を秘めているのではないかーーそんな幻想がまだ生きていた時代の賜物なのでは。ジョイ・ディヴィジョンのレコードに針を落としつつ考えました。
回っているレコードは「アトモスフィア」。