【2021年6月3日】レベル・ミュージックの昔と今

 

 

 

段ボール箱のCDを漁っていたら、たまたま出てきました。タイトルとアーティストに釣られて購入したのではないかと。

とは言えタイトルに「反逆の音楽」と銘打ってその歴史をアーカイブしている時点で、反逆の音楽 (レベル・ミュージック) は既に終わっているのではないかという気が、今読み返してて感じました。ライターたちも、遠い目をして語っているような。もしかしたら「ロッキング・オン」を購入したのはこれが久しぶりで、且つ最後だったかもしれません。

 

 

 

今だと考え難いのですが、私の少年時代の、幾つかのビッグ・ネームのロック・バンド、レゲエ・バンドは、「音楽で世界を変えれる・人の意識を変えることが出来る」と本気で信じて音を鳴らして、言葉を発していました。そして本気で絶望していました。

 

 

日本でも、メジャー・シーンとは遠く離れたアンダー・グラウンドのシーンでは、そんなバンドが多く存在しました。その中には自身の音や言葉に酔っているだけのバンドも多くいました。仮想敵を設定して、攻撃して満足しているだけに思えたバンドもいました。そして、上手いバンドもいればヘタクソなバンドもいました。

いろんなアーティストの音に触れながら最終的に思ったのは、「自分にとって本当に歌わなくてはいけない『何か』」が、あるか・ないか、それが強いか・強くないか、でその音楽の本質が決まるのではないか、ということです。

 

 

ロックは、思想やテクニックといった表層を飛び越えて、表現者の本質が届くものだということです。だからこそ、ノホホンとした日本の少年にも、イアン・カーティスやジョン・ライドンの生々しい肉声が、しっかりと届いた訳です。それは基本的に、今のこの時代も同じではないかと、実は思います。

 

 

 

テクノロジーの発達で昔は一部の人しか表現出来なかったのが、今では誰もが (何と!私でも 笑) 表現出来る、そんな時代です。

そして、フツーの人が誰でもそれなりに発信出来るようになった分、当然ながら、フツーの、当たりさわりのない表現も増えています。

 

 

単にキレイな音楽を鳴らしたいだけなら、究極的に言うと、音大まで行って音楽の勉強をして、テクニックを身に付ければいいという話です。そして実際今の時代、日本では、そんなキレイな音・アカデミックな音が、ポップスの主流になりつつあります。

 

 

しかしながら、40年以上に渡ってポップ・ミュージックを聴き続けてきた耳が、そんなキレイな音を聴きながらも、「あ、これはいい!、これはダメだ」と、自分にとって必要な音とそうでないと音とを、瞬時に嗅ぎ分けてしまいます。それこそ昔、いろんなパンク/ニュー・ウェイヴのバンドを聴き分けてきたように。

 

 

 

今どきのキレイな音楽の中にも、昔聴いたヒリヒリと痛いレベル・ミュージックと同様の音楽は、確かに存在します。一聴耳触りのいい音の中にも、SOSのノイズが渦巻いている、そんな表現もちゃんと存在します。

ただ、今は単純に「音楽で反逆」の季節は終わっていて、その矛先は表現者自分自身に向かっているので分かりにくいのですが。今や、敵は世界ではなく自分自身ではないかと。