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【2018年6月30日】昨今の犯罪を思う 〜 リセットできないのが現実

賃労働でイラストレーターを、音楽制作でキューベースをと、日々PCソフトを使って (ソフトに使われて?) いる、このところの毎日ですが、遂に「ソフト病」の症状が日常に現れました。
新曲のコードを書いたメモ帳の、そのコードを大きく手直しする際、一瞬ですが「あ、デリート、デリート」と、デリートキーを探しそうになりました。
直ぐに現実に戻って、ボールペンで書いたものは二度と消せないので、結局書き直しました。

 

 

以前にゲーム好きな職場の同僚が、ドラクエにハマって寝ても覚めてもやっていて、何かやらかしたらついリセットしたくなるんで困ったもんだと言ってたのを思い出しました。
その時は笑い話ですんだのですが、まさか自分もそうなろうとは、です。

 

 

イラストレーターやキューベースを使っていて一番便利に思うのは、とにかく「やり直せる」という点です。上手くいかなかったらやり直せばいい、そんな考えで進めるので本当に便利です。
ところが当たり前の話、現実の世界はやり直しの利かないことの方が多いのです。まだバーチャルに馴染んでいない私ですら、現実をリセット出来ると錯覚に陥りそうになった位ですから、人格形成期からゲームやPCに馴染んでいる世代の人たちは、この「やり直しの利かない現実世界」を、どう捉えているのか、推して知るべしです。

 

 

そしてインターネットの世界も、決して「向こう側」の世界ではありません。バーチャルで遊ぶことも出来る、単なる「現実世界のいちツール」です。そう認識していないといけないかなと。ネット初心者ながら、そう感じます。

 

 

昨今の凶悪犯罪をみると、昔からの凶悪犯罪動機の定番である恨みや男女関係のもつれではなく、ただ何となくやってしまった、という事件が多いのに驚きます。
年若き犯人たちの頭には、「やり直しの利かない現実世界」を、どのように捉えているのでしょうか。人を殺してからあわててリセットキーを探しても手遅れなのですが。

 

 

別にバーチャルの世界に馴染むのがよくないという訳ではありませんし、凶悪犯罪の犯人たちがみんなリアルに生きていないのではというつもりもありません。
ただ私が経験した、現実世界にリセットキーを探す行為から思いを巡らしただけですが、全くの無関係でもないかなと思ったので。

 

 

 

 
記事の富山市は、私の実家の隣の都市。災害も犯罪も決して他人事ではありません。

【2018年6月29日】カバー・ヴァージョンを許さない、山下達郎の楽曲

数日前に出来た新曲の半音くだりのコード進行について、「山下達郎さんの『僕の中の少年』に、このような動きがあったような気がします。ここをポイントにしたアレンジを考えています。」
と書いてから、威風堂々と同様にこちらも気になって、久しぶりに聴き返しました。

 

 

以前にこのブログでも少しだけ触れましたが、「僕の中の少年」(’88年) は、私が一番好きな山下達郎さんのアルバムです。その中でも一番好きなのが、アルバムのタイトル曲です。約30年前の曲ですが、全く色褪せていません。(楽器の音色は’80年代してますが)
聴くと、サビの後に更にメロディが盛り上がる箇所があって、やはりその箇所で実にいい感じでコードが半音づつ下降していました。
この箇所は実に印象深くて、この後またAメロに戻るのですが、この戻る途中の一人コーラスもまさに圧巻で、鳥肌モノです。

 

 

聴きながら書いているうちに、そう言えば達郎さんの曲って、他のアーティストの誰もカバーしないなあとふと思いました。これだけのビッグ・ネームなのに珍しいです。youtubeを見ても、「クリスマス・イブ」以外、ほとんど見当たりません。そしてクリスマス・イブのカバーが多いのはよく分かります。あの曲自体、クラシックの「カノン」のカバー・ヴァージョンの一種なので。
余談ですが、J–POPに「カノン進行」が多いのも、この曲やユーミンの「守ってあげたい」の影響ではないかと思います。(実は私もこの進行で一曲作りました)

 

 

そう思って聴いていて、これはたしかに、いくら「僕の中の少年」が好きな自分でも、絶対にカバーはしないなあ、というか出来ないなあ、と感じます。
つまり達郎さんの曲は、ほかの解釈をしようもないほど楽曲のアレンジ・音・歌唱が高みまで練り上げられていて、隅から隅まで隙がなく完璧な音世界を構築しているからです。アリ一匹つけいる隙がありません (笑)。以前に触れた尾崎豊さんの楽曲と正反対ですね。これは良し悪しの問題ではありません。

 

 

私は昔から、割と隙の多い、想像力が入り込める余地がある音が好きなのですが、そんな私でも山下達郎さんはよく聴いていました。
今でこそJ–POPも全体的に高クォリティですが、当時は達郎さんが頭三つほど抜けていました。私個人の嗜好性とは関係なく、圧倒されていました。特別な存在ですね。
「僕の中の少年」「ポケット・ミュージック」を聴き返してあらためて思いました。

 

 

 

 

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(「グルーヴィン」を歌う達郎さん。)

 

 
他人がカバーしなくても、達郎さん自身は洋楽のカバーを演るのが好きで、アカペラの「オン・ザ・ストリート・コーナー」をはじめとして、数々のカバー・ヴァージョンをリリースしています。
中でもマイ・フェイヴァリットの一曲に、ヤング・ラスカルズの’67年のヒット曲「グルーヴィン」のカバーがあります。アルバム「アルチザン」(’91) のラストに入っています。自身のFM番組「サンデー・ソング・ブック」のエンディング・テーマとして流れていた曲です。

 

 

私は日曜日はほぼ仕事ですが、とある数年間だけ、土日休みの勤務になったことがあります。その時の日曜日の午後から、ユーミンの番組と達郎さんの番組を続けて聴いていました。仕事のストレスが癒される、まさに至福のひと時でした。お二人とも、選曲のセンスが抜群でした。
その時に毎週この「グルーヴィン」を耳にしていたので、その時の思い入れもあってのフェイヴァリットなのかもしれません。

 

 

達郎さんの「グルーヴィン」ですが、実は自身の作った曲のように、完璧で隙がない訳ではありません。
トラックは、当時聴いてもいかにも打ち込みという感じでガチガチ・ギクシャクしていましたし、肝心のボーカルも、およそ「♪グルーヴィン、オン・ア・サンデー・アフタヌーン〜」という感じではなく、結構気合が入っていて、コブシがまわっていて、それがリラックスしたムードの楽曲と微妙なミスマッチ感がしたり。
曲のポイント “Life would be ecstasy, you and me endlessly ” の箇所も、実に気負って歌っていますし。(笑)
原曲の方が、全然リラックスしていて、まさに「グルーヴィン」です。

 

 

だけども私は、この曲の、隙だらけで気負っている達郎さんが大好きです。原曲やこの時代への愛と憧れを感じます。中ファン?の私ですらそうなのですから、大ファンの方々も同様に感じていらっしゃると思います。
一度でいいので、ライブを観に行きたいなあと、今更ながら思いました。