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【2018年9月28日】奥田民生ニュー・アルバム「カンタンカンタビレ」は宅録のなれの果て?

 

 

2日前「新曲『死について思うこと』〜 トラックが完成!」で、デジタル機材・アナログ機材について書きましたが、奥田民生さんのニュー・アルバム「カンタンカンタビレ」(9/26リリース) は、何と、8トラックのアナログオープンリールを駆使しての、一人多重録音で録った音源。ヒロトさん同様、民生さんもアナログ派なんですね。

 

 

ちょっと気になり年齢を調べたら、甲本ヒロトさんは’63年生まれの55歳。奥田民生さんは’65年生まれの53歳。ちなみに私は’64年生まれの54歳。やっぱりという感じで、アナログに拘る気持ちはとてもよく分かります。

私は今年、とうとうデジタル機材を購入しましたが、才能とテクニックがこのふたり程あったなら、絶対にアナログ楽器・機材に拘っていたと思います。(以前書きましたが、ソフトでの音源制作はレベルは別として、誰でも簡単に出来ます)

 

 

「BEAT」のPVで、その一人レコーディング風景を披露していますが、実に楽しそうです。8チャンネルのオープンリールで録ってるそうで、当然チャンネルが足りなくなると、ピンポン録音になります。

(ピンポン録音=例えば、1チャンネルから6チャンネルまで録ったものを、ミックスダウンして、7・8チャンネルに落として、1〜6に新しく音を入れれるようにする作業。)

 

 

ところで奥田民生さんの音楽は、今回のレコーディング方法にしてもそうですが、曲自体も、年齢を重ねる毎に、どんどんシンプルになっていっている気がします。ユニコーン時代は、複雑なコード進行・リズムの曲が多く、あの時代にあっては、すごく屈折した音楽性を感じさせるバンドだったのですが。この辺、どんな思いで音楽を作ってきているのでしょうか?

 

 

このシンプル化は、ユニコーン時代の「すばらしい日々」「働く男」「雪の降る町」… など、たくさんのコードを駆使した楽曲たちを聴き込んだ私には、とても興味深く思います。もし私がインタビュアーなら、突っ込んで聞いてみたいです。(でもここ数作は聴いてないので、もしかしたらまた複雑になってたりして)

 

 

 

 

これがその「BEAT」のPV。観ていて思ったのは、民生さんは、曲を作ることよりも演奏して歌う方が好きなんじゃないかなあ、という事。だから、曲はどんどんシンプルになっていっているのかもしれません。

それにしても、記事タイトル「奥田民生『カンタンカンタビレ』は『音楽を作るのは面倒で、だからこそ楽しい!』というメッセージアルバムだ」は、実に的を射ています。この記事を書いたライターも宅録経験があるのではないかと。

 

【2018年9月27日】ぼくのりりっくのぼうよみの活動終了に思う

 

 

実は名前しか知らなかったのですが、この人の活動終了宣言はyahoo!ニュースのトップ記事にまでなっていて、どんな音楽を演っていたんだろうと気になって、youtubeを観た (聴いた) のですが、あまりの凄さに、私はビックリしました。聴いてみてよかったと思いました。今まで色モノかと思っていました。名前にだまされて未聴の音楽ファンは、一度でも聴いて欲しいです。

 

 

取り敢えずちゃんと聴こうと思い、TSUTAYAとリサイクル・ショップにCDを買いに行ったら、TSUTAYAにはセルは品切れで置いてなく、ブックオフに一枚あって、早速購入しました。それが「ディストピア」という4曲入りのEPでした。付録?で短編小説が付いていましたが、これも中々。後から調べたら、この人は文芸雑誌にも寄稿していました。

 

 

ぼくりりさんの音楽ですが、ヴォーカル・スタイルと歌詞がユニークです。一言で言うと「自由」です。メロディも歌うし、ラップもするし、語りも入りますが、それぞれのパートがはっきりと分かれている訳ではなくて、全てがごちゃ混ぜに混ざっているところが特徴です。リズム感が抜群にいいので、それがちゃんと音楽的に響いています。

 

 

その言葉は、自意識を持て余している少年の心情表現です。こういうのを厨二病の一言で片付ける人がいますが、そもそもそんな人には必要のない、ぼくりりさんの言葉たちです。必要な人は、ちゃんと受け止めていると思います。私が思春期の頃に聴いた音・読んだ文章を思い出しました。

こういう表現を必要としている人たちが少なからずいるという事に、そして売れている事に、何故かホッとしました。闇を歌いながらも異常にポップです。

 

 

バイオグラフィーでは、高校生の時にデビュー、今は二十歳だそうです。世界中で昔から、こういった早熟の煌めく才能の表現者が時々現れて、そして少なからずの人が夭折しています。

 

 

 

 

例によって子どもの頃の話ですが、小学生の頃「バビル2世」という、横山光輝さんの描いたマンガが流行っていて、私も大好きで、単行本も買って読んでいました。

主人公の少年であるバビル2世は超能力者です。超能力と3つのしもべを従えて、世界征服を目論む悪人のヨミ (こちらも超能力者) と、日々戦う、そんな話です。

 

 

バビル2世やヨミの超能力バトルがこのマンガの見どころなのですが、面白いのは、その超能力を使い過ぎると、急激に身体の力が抜けたり、しまいには老化してしまったりするところです。ヨミはそれを「自分やバビル2世は決して無敵ではなく、普通の人が数十年かけて汲み出す井戸水を、一気に汲み出す能力でしかなかったのだ」というような事を語っていました。我ながらよく憶えているなあと (笑)。

 

 

というのも、早熟の天才的な表現者に触れる度に、実はこのヨミの心の中の語りのシーンを思い出すからです。

己の純粋な才能の井戸から掬い上げているからこそ、年若き天才たちの表現は煌めく光を放っていますが、それはバビル2世やヨミの超能力のように、長続きするものではないように思います。

「ハタチ過ぎたらただの人」という言葉も、ある意味的を得た言い回しで、つまりは、年齢と共に、急激に汲んでいた井戸水が枯れてきたり、あるいは中に不純物が混ざってしまったりで、そんな表現は純粋な頃のに比べるとつまらなく感じてしまう事を言い表した言葉でもあるかと思います。

 

 

 

 

けれども私は、自分が歳をとったからかもしれませんが、そんな早熟の天才たちの、衝動や感性の赴くままに作った作品よりも、その後に得た知識や生活体験といった「不純物」が混ざった「天才・その後」の作品の方が面白いと、最近は思います。

たら・ればはありませんが、ジム・モリソンさんや尾崎豊さんが存命だったら、どんな歌を歌っていたんでしょうか。

 

 

 

ぼくりりさんの、少年期的な表現はこれで終了しますが、全く別のステージでの表現に、私は是非触れたいと思います。

 

 

 

「ディストピア」と、短編小説「Water boarding」。