先日27日は、アメリカのロックンローラー詩人、ルー・リードさんの5度目の命日との事でした。
私は好きなミュージシャンも好きな曲も多く、いろんな曲を聴き続けて今に至っていますが、その中で一番多く聴いた曲はと言えば、おそらく、ルー・リードさんの歌った、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「スウィート・ジェーン」のような気がします。
この曲はルー・リードさんもお気に入りの一曲だったようで、ライヴでは必ず歌われていたようです。数枚リリースされているヴェルヴェッツやソロのライヴ盤にも、常に収録されていました。
私が好んで聴いていたヴァージョンは、’84年リリース「ライブ・イン・イタリー」のテイクです。
スリー・コード (正確には、アクセントでBmが入るので4つ) の、速くもなく遅くもないリズムに乗って、ポエトリー・リーディングのように淡々と歌われるこの歌に救われた方は、世界中で少なからずいるのではないかと思います。カバー・ヴァージョンもいくつか聴いた事があります。日本人では、ザ・ルースターズが昔ライブで演っていました。
ひと頃私は、この曲を毎日聴いていました。この曲を聴いて、自分の人生を納得させていたんだと思います。
人はそれぞれ、気がついたら生まれていて、気がついたら、ポンと、思いもよらない環境に投げ出されていて四苦八苦して、更に気がついたら歳を重ねていて、そのうちおそらく自分でも気がつかないままに死んでしまうのでしょう。変な言い方ですが、死んでから「ああ、自分は死んでしまったんだな」と気がつくのではないのでしょうか。(もちろんそんな事はありませんが)
音も言葉も、それこそ我々の人生のように淡々と進行する曲ですが、一応ヤマ場があります。
最後の方の「Life Is Just To Die」(人生なんて死ぬためにあるんだ) と歌う箇所です。淡々としたボーカルが、心なしかここだけ、少し力が入って歌っているように聴こえます。
だからがんばろうよとか、悲嘆するとか、そんなふうではなく、事実を正確に描写しているように聴こえます。
それで、なんでこの曲を毎日聴き続けていたんでしょうか。
おそらく、日々「確認」したかったのだと、今になって思います。人間というのはどんなふうに生きても、そのうちに、生まれてきたのと同じように死んでいく。それは決まっている事だ、という確認作業。それを自分に言い聞かせる為に、毎日毎日、お坊さんがお経を唱えるように、聴いていたのだと。
あとこれは単なる妄想ですが、ルー・リードさん自身も、「スウィート・ジェーン」を歌い続ける事によって、自分自身の「今の生」の立ち位置を、常に確認し続けていたのではないでしょうか。
だからこそ、もしやりたい事があるならちゃんとやっておきなさい、最後のフレーズは、そう歌っているように聴こえます。そしてその時の思いは、今になって自分の行動や詩作に影響が出てきていると感じます。
今回、この歌の対訳を載せようと思いネットを開いたところ、多くの人々が、それぞれの言葉に翻訳して上げていて、実に感慨深いものがありました。この曲に心を動かされた人は、日本にもそれ程多くいらっしゃるという事です。
その中から、画家/文筆家である稲村光男さんのサイト「雨の日の女」に上がっていた対訳を引用します。
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スウィート・ジェーン
スーツケースを持って街角に立ってる。
ジャックはコルセット、ジェーンはベストを着けていて、ぼくはロックンロール・バンドに入ってる。
スタッドを履いてる奴は捕まえな。
あのころは今とはまるで違ってたよ。
詩人たちはみんな韻の踏み方をお勉強してたし、女のひとたちは目をギョロつかせていたものさ。
今ではジャックは銀行員で、ジェーンはといえば事務員だ。
ふたりともお金を貯めてるんだ。
仕事から帰ってくると暖炉のそばにすわって、ラジオはクラシック音楽を流している。木の兵隊のマーチだ。
君たち反抗的な少年少女のみんなにも、ジャックが言うのが聞こえるだろ。
『ステキなジェーン』って。
ダンスしにいくのが好きなひとたちもいる。
働かなくちゃならないひとだっている、ぼくみたいにね。
とんでもない母親たちが教えてくれるよ、ぼくらの生命はみんなきたならしいものでできてるってさ。
女のひとがほんとうに気を失ったりなんかするもんか。
何百万人もがいつも目をパチクリさせてる。
顔を赤らめるのはお子様だけじゃない。
それに人生なんて死ぬためにあるんだ。
でも言っておくことがあるよ。
いちど心を持ってしまったら、それをぶちこわしになんかできない。
いちど役を演じてしまったら、それを嫌になることなんかできない。
対訳:稲村 光男