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【2021年7月30日】「一枚の絵」「春酔唄」ボーカルの再レコーディング及び再ミックスダウン・ヴァージョン完成 ・:*+.\(( °ω° ))/.:+

ここ数日手掛けていた2曲です。先日出来上がり、一晩置いて聴いたところ問題ない感じがしたので、これで一先ず完成としました。

 

 

 

「一枚の絵」は、幼少時代のノスタルジックな世界観を表現するのを念頭にブラッシュアップしました。上がったテイクを聴き返すと、歌詞の主語を「私」にしたり、コーダへの流れでリズムを変えてテンポを上げたりしたところは、割と成功したところなのではと感じます。

 

 

「春酔唄」は、どうも音のバランスがイマイチ良くなくて団子状態に聴こえるので、そのうちさわろうかと思っていました。

しっかり弾けているギターのカッティングのレベルを上げ、一拍目のキックをやや引っ込めたところ、音像に奥行きが出たように感じます。

あと、低オクターブでハモって歌われるAメロの、その低音パートを歌い直しました。ミックスはゴダイゴ「モンキー・マジック」を意識しました。

 

 

 

両曲とも、実験的にテンション・コードを多用して作った曲です。今聞き返して、まだまだブラッシュアップの余地があるような気がします。しばらく置いといて、また手を付けるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

【2021年7月28日】宮沢賢治「告別」を読み返して

先日、自曲制作についてちょっとした調べものをしていて、宮沢賢治「告別」をあるサイトで目にしました。若い頃読んで感銘を受けた詩です。今読んでも心にスッと入ってきました。

長いけど全文のせます。こんな詩です。

 

 

 

 

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告別

 

おまえのバスの三連音が

どんな具合に鳴っていたかを

おそらくおまえはわかっていまい

その純朴さ希みに充ちた楽しさは

ほとんどおれを草葉のように震わせた

もしもおまえがそれらの音の特性や

立派な無数の序列を

はっきり知って自由にいつでも使えるならば

おまえは辛くてそして輝く天の仕事もするだろう

 

泰正著名の楽人たちが

幼齢弦や鍵器をとって

すでに一家をなしたがように

おまえはそのころ

この国になる皮革の鼓器と

竹で作った管とをとった

 

けれども今頃ちょうどお前の年頃で

おまえの資質と力を持っているものは

町と村との一万人の中になら

おそらく五人はいるだろう

 

それらの人のどの人もまたどの人も

五年の間にそれを大抵無くすのだ

生活のために削られたり

自分でそれを無くすのだ

全ての才や力や材というものは

人に留まるものでない

人さへ人に留まらぬ

 

言わなかったが

俺は四月にはもう学校にいないのだ

おそらく暗く険しい道を歩くだろう

 

その後でおまえの今の力が鈍り

きれいな音の正しい調子とその明るさを失って

再び回復できないならば

俺はお前をもう見ない

 

なぜならおれは

少しぐらいの仕事ができて

そいつに腰を掛けてるような

そんな多数を一番嫌に思うのだ

 

もしもおまえが

よく聞いてくれ

一人の優しい娘を思うようになるその時

おまえに無数の影と光の像が現れる

おまえはそれを音にするのだ

 

皆が町で暮らしたり

一日遊んでいる時に

おまえは一人であの石原の草を刈る

その寂しさでおまえは音を創るのだ

 

多くの屈辱や窮乏の

それらを噛んで歌うのだ

 

もしも楽器が無かったら

いいかお前は俺の弟子なのだ

ちからのかぎり

空いっぱいの

光でできたパイプオルガンを弾くがいい

 

 

 

 

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この詩は宮沢賢治さん自身が教壇に立っていた花巻農学校を辞める際に、生徒さんたちに送った言葉だそうです。この詩が若い頃の私のアンテナに触れたのは、単純に、音楽好きの・得意な生徒さんに向けて語っている言葉=自分に向けての言葉、と読んだからです。

 

 

自分の中の世界をちゃんと表現出来る意思やスキルが、この詩で言うところの1万人の中の5人の才能が、もし君にあっても、生活や賃労働にかまけていたり努力を怠ったりしてたら、せっかくのその才も腐ってしまうぞ。

あきらかに1万人の中の5人ではなかった平凡な私ですが、当時はちょっとそう思っていたのかもしれません (笑)。というか、思いたかったのかも (笑)。この詩をそんなふうに読んで、感銘を受けていました。

 

 

ところが今読むと、そんな解釈は上っ面な解釈だったと思ってしまいました。

上記の解釈は、主に前半部分を受けての解釈です。しかし本当に重要なのは、「もしお前が よく聞いてくれ」から始まるところではないかと。ここにこの詩の核心があるのではないかと、数十年経って読み返して感じました。(詩中で「よく聞いてくれ」と言っているぐらいです 笑)

 

 

1万人の中の5人の才能を一人自分の世界に入って純粋培養したりスキルを磨いたりするのではなく、社会に交わって、他者に触れたり生活に四苦八苦して、そんな中でも尚産み出されるその表現こそ、実を持って光り輝くのだ、この詩の後半はストレートにそう語っているように、今の私には感じられます。

実際、宮沢賢治さんもそういう生き方をしています。

 

 

 

何故若い頃の私は、当時それを読みのがしていたのでしょうか?

若い頃の私は他者を寄せ付けず自分の殻に閉じ籠っていたので、単純に自分に都合よく読んでいたのだと、今になって思いました。

とは言え、これも今の私が読んだ誠勝手な解釈かもしれません。10年後や20年後に読み返すと、また違うふうに感じるのでしょう。

どんな人にも寄り添える言葉。それが秀れた詩というものです。