「ヘブン」のトラック、一応出来上がったのですが、どうも型にハマり過ぎている感が大きく、歌を入れるのは見送る事にしました。まあ平たく言えば、ボツにしたという訳です。
こうやって何年も曲作りを続けていると、良くも悪くも、作るのに慣れてきます。気をつけないと、前に作ったようなメロディやアレンジになりがちです。
メジャーな商業音楽の場合は、その「同じモノ」を求めるお客さん (ファン) の為に作る商品なので、それで構いません。
あと、〜道を極める、的に、同じスタイルの音楽を数10年続けていらっしゃる方も、それはそれでいいのではないかと。何故なら、演っている本人がそれで納得しているからです。
私の場合、マンネリは極力避けないと、先ず自分が楽しめません。自分が作って・自分で聴いて楽しめない曲は、他人が聴いても面白くないのではと、単純に思います。なので、その時々の自分が興味ある音で演っている、という訳です。
しかしその曲作りに関して、明らかに一つの傾向があります。それは「曖昧さ」です。特にここ数年の私の曲は、明るくもなく暗くもありません。速くもなく遅くもなく、高揚する事もなければ、落ち込む事もありません。叫んだりもしません。淡々と進行するのが毎度のパターンになってきています。時々「ケサランパサラン」のように元気なのもありますが。
普段の、日常の私は、感情の起伏がほぼありません。そして心を開いて喋れるのもごく一部の人しかいません。まあごく一部でも、そんな方がいるというだけしあわせだと思うようにしています。
笑ったり・怒ったり・泣いたり、というのが基本日常的には出来ません。特に、怒りに関しては、ここ20年以上?(もっとかな?)、怒った事がない程です。怒りってどういう感情だったかな?と今思った程です。淡々としていて全く面白みのない人間だなあと、つくづく思います。
なので、メロディや歌詞を創作して、それが何とか心の運動になっているのでしょう。身体同様、心も、動かさないと壊れてしまいます。曲を作ると心が踊ります。間違いなく、それが生きる力になっています。
そんな私が作るから、曲は曖昧な色になるのかなあと、ふと思いました。私の心は、感情の起伏が少ないとは言え、常に微妙に動き続けています。細かく細かく、動き続けています。
昔、カナダ人のシンガー・ソングライター、ジョニ・ミッチェルさんの曲の、まるで心のヒダのような、微妙に揺れ動くメロディとコード (ギター) に魅せられて、彼女の歌ばっかり聴いていた時がありました。曖昧さの中に、全ての感情が込められている、とでも言いましょうか。
私にはとても彼女のような繊細な曲は作れませんが、私も彼女同様、慣れではなく自分の心の動きに正直に・素直に従って、曲を作り続けたい、そう思います。
自宅で「夏草の誘い」を聴いている、以前上げた画像。ジャケットの絵も彼女が描いています。1番よく聴いたアルバムです。