【2019年3月12日】「ふきのとう見つけた」トラック出来ました! 〜 動物と植物の大きな違いを考える

2日前に録ってきた自然音を曲間に挟んで、ミックスも終わりようやく完成です。後は歌を入れるだけとなりました。

この稿をアップするにあたってふきのとうの画像を付けようと思い、いろんなサイトでふきのとう画像を閲覧していました。以下の文章は、「田舎センセイによる田舎暮らしでの悩み解決情報サイト」というサイトの、群生するふきのとうの画像を観ながら考えた事です。

 

 

 

前回の続きのようですが、私は動物と植物を比べた際、植物の方に愛着が湧きます。

動物は「死」をちゃんと受け入れられる心構えがないと、飼ったり育てたりは出来ない気がします。

 

 

小学生の頃、お祭りで金魚すくいをして、数匹捕まえたのを家で飼った事があります。数匹はすぐに死んでしまったのですが、最後の一匹は冬になっても泳いでいました。毎日見るのを楽しみにしていましたが、ある朝、その金魚が死んでいるのを見て、ショックで熱を出して学校を休んだ事があります。それから金魚すくいはした事ありません。動物を飼いたいと思った事もありません。

 

 

 

人間を含めた動物と植物には、同じ生物ながら、大きな違いがあると思います。一口で言うと、動物は「個体」で始まって (生まれて)、個体として完結 (死ぬ) しますが、植物は、命が繋がっていくイメージです。だから、接していて心が落ち着くのかもしれません。

群生しているタンポポが、季節になったら綿毛を飛ばします。やがてそのタンポポたちは枯れて土に還っていきますが、飛んだ綿毛は、どこかの土地でまた花を咲かせます。だからでしょうか、植物が枯れても悲しいという感情は湧きません。

 

 

 

とここまで書いて、大昔に読んだ、ロッキング・オンに書かれていた岩谷宏さんの文章を思い出しました。

たしか岩谷さん自身が野菜を栽培されていて、バラバラの大きさのトマト?きゅーり?(忘れました) を見て、「それぞれがかけがえのない個体である事がよく分かった」といった趣旨のコラムだったと記憶しています。

 

 

残念ながら、私にはそこまで植物に「個体差」は感じられませんが、昨年秋にみかん狩りに行った際、自分たちが狩ったみかんと売っているみかんを比べて、大きさが不揃いな自分たちの狩ったみかんの方が、店先に並んでいる、大きさが揃ってワックスでツヤツヤのみかんよりも、数倍美味しくみえました。平たくいうと、そういう事なのかなあと。

 

 

 

思うに、植物も動物のようにそれぞれの個体なら、人や犬や猫だって、植物のように種を残して死んでいきます。同じですね。

もしかしたら「個」を意識しなかったら、死もそれほど悲しくはないかもしれません。自分の死も同様です。自分がいなくなると思うから、人は死を恐れるのでしょう。

いろんな宗教の輪廻転生思想も、「個人」が「人類という種の一部」として安らかに死んでいけるための、一種の思考装置かもしれませんね。