高橋幸宏さんの訃報後、高橋さん並びにYMO関連の記事がYahoo!ニュースに散見されます。私は目につく記事は逐一読んでいるので、それを受けてAIが更に記事をぶちこんでくる?のかもしれません。この記事は、そんな記事の中から腑に落ちたもののひとつです。
この記事の面白いところは、タイトルにもありますが「1983年」にフォーカスして語っているところです。何故面白いかと言えば、当時コアなファンの間では、この年にリリースされた2枚のアルバム「浮気なぼくら」「サーヴィス」は「お仕事」で作った、的に捉えられていたからです。
「お仕事」とは言えクォリティは高く、特に「サーヴィス」は、当時の世界レベルにも通用する音でした。初期の2枚の衝撃、「BGM」「テクノデリック」の先鋭性、はありませんが、好きなアルバムに挙げる方は多くいらっしゃいます。
当時の私はそう思っていたのですが、この記事を読むと、どうやらこの歌謡テクノ・AORテクノ路線は、単に「お仕事」ではなく、当時の本人たちは結構乗り気で作っていたみたいです。
「前から日本語でやりたかったんですけど、イマイチ吹っ切れなかったみたいなところがあって。日本語ってムズかしいから」
(『WEEKLYオリコン』1983年4月8日号より 細野談)
「YMOの歌詞は、すごくシビアだったでしょ? それは英語だったから、できたの。同じような内容を日本語で歌うのには無理がある。混乱とか混沌とかいう言葉を歌にできる?」
(『キーボード・マガジン』1983年3月号より 幸宏談)
「浮気なぼくら」で、それまでのパブリック・イメージを吹っ切ったので、「サーヴィス」は自由に作れたのではないかなと。三者三様の個性がバラバラにならずに上手く1枚のアルバムに収まっています。
この路線で作り込んでもう1枚出していたら、とんでもないアルバムが出来ていたかもしれませんが、その「もう1枚」を作らないところがYMOらしいです。