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【2024年4月23日】宇多田ヒカル「BADモード」を聴く

新曲「SUNDAY MONDAY」を作っていて、ふと宇多田ヒカルさんの「BADモード」(アルバムではなくタイトル曲の方) を思い出し、リズム・アレンジや楽器の音質/音量、歌の乗せ方など参考にしようかと、早速聴きました。

それで聴き始めたら1曲目のこの曲だけではなく、結局アルバム「BADモード」を通して聴いてしまいました。やっぱりいいアルバムだなあと。

 

 

 

実のところ私は、人間宣言から復帰後の宇多田ヒカルさんのアルバムにイマイチ馴染めず、「Fantôme」(‘16年)「初恋」(‘18年) の2枚はあまり聴いていませんでした。しかし、’22年にリリースされたこの「BADモード」は結構ハマり、リリース当初はリピートして聴いていました。

この理由が自分でもよく分からず言語化出来なかったのですが、今になって分かった気がしました。それは「BADモード」は復帰前同様の、プログラミングによるシンセ音のアルバムだからかなと。凄く単純な理由ですが…。

 

 

 

歌手の側面ばかりがクローズアップされていますが、実は宇多田さんは2枚目のアルバム「Distance」からアレンジを始め、3枚目「DEEP RIVER」から、基本一人で制作を行なっている、バリバリのDTMer (宅録の人) です。

「BADモード」には、そんな宅録魂が久しぶりに宿っていて、極めて密室的・個人的な表現に聴こえます。このアルバムが制作されたのはコロナ禍の真っ最中です。今になって言える事ですが、コロナ禍の閉塞感がプラスに作用したのではないかなと。(タイトルの「BADモード」は、コロナ禍の事だと思います)

 

 

そしてもう一つの重要ポイントとして、復帰前の曲調は勿論、UTADAとしてリリースされた洋楽アーティスト的楽曲、そして復帰後の曲調、それらの良質な部分の全てが、この「BADモード」に詰め込まれている、そんな印象を受けました。

ウィキペディアには「バイリンガル・アルバム」と位置付けている、と上がっていました。それは単純に歌われている歌詞の言語だけではなく、音楽性もです。

J – POP「宇多田ヒカル」でも、洋楽「UTADA」でもない、新しい扉を開いている、そんなアルバムです。

 

 

 

こうやって深く聴き入った音楽体験は、脳内で濾過されて必ず自分の楽曲に反映されるものです。「BADモード」も、そのエキスは必ず自分の楽曲の血肉になっていると信じたいです。

 

 

 

 

画期的なラベル面。市販のCD – Rに、宇多田さんが直接ペンで書いた、そんなデザインです。CDを開けた時ドキッとしたのは私だけではないと思います。明らかに「私信」を意識しています。今、歌ったヤツを、あなたにあげるよ、的な。

 

 

【2024年4月13日】前回の続き 〜 加藤和彦「パパ・ヘミングウェイ」に思う

加藤和彦さんの’79年リリースのアルバム「パパ・ヘミングウェイ」は、加藤さんと、作詞家でプライベートでもパートナーでもある安井かずみさんが愛読する、ノーベル賞作家アーネスト・ヘミングウェイに寄せたコンセプト・アルバムです。

 

 

「ヘミングウェイの思想ってものを音楽に置き換えたらどうなるかってことで、また違う世界を作り出す手法に興味があって、あれを作った」(本人談) とあるように、ヘミングウェイが辿った生涯を追ったような曲構成となっています。

 

 

この曲構成が、コンセプト・アルバムでよくある起承転結的ではないところがユニークです。

ヘミングウェイの生涯をなぞって、ヨーロッパ (パリ) を出発して、イタリアを経由。そして西インド諸島、ガイアナ、アンティル諸島等、舞台はカリブ海に移っていきます。歌詞カードを見ながら、世界地図を頭の中に広げて聴いていると、実に映画的風景が次々と浮かんできます。こんなにも分かりやすくて楽しめるコンセプト・アルバムは、中々ないんじゃないかと思います。

アルバムを通して聴くと、まるで一冊の長編小説を読んだ気分を味わえます。

 

 

 

そして、ここが最重要ポイントだと個人的に思うところがあります。それは、1曲目「スモール・キャフェ」2曲目「メモリーズ」の、ヨーロッパを歌った2曲と、3曲目以降の南国でのエピソードを歌った曲たちが、あまりにも大きな落差がある事です。

 

 

1曲目・2曲目の暗さは、まるでロキシー・ミュージックの3rd. アルバム収録の、ヨーロッパの落日を歌った名曲「ソング・フォー・ヨーロッパ」のような暗さです。

加藤和彦さんは生前、それこそロキシー・ミュージックのブライアン・フェリー氏同様に、いわゆる貴族趣味というかダンディズムというか、そんな方でした。この2曲の誇張されたような暗さは、今聴くと自分自身をパロディにしている印象を受けます。

 

 

 

きっと加藤和彦さんは、西欧的自我を柔らかくほぐしてくれるような大らかなカリブ諸島に憧れたヘミングウェイと、自分自身を重ねていたに違いありません。3曲目以降、どんどん開けていく曲たちを聴いていて、そう思いました。

冒頭にヨーロッパ的な暗さの2曲を置いているが故に、3曲目以降の解放感が格別だと感じます。まさに発言通り、ヘミングウェイの思想を音楽に置き換える事に成功しています。

 

 

更に言えば「パパ・ヘミングウェイ」は、ヘミングウェイの思想を手掛かりに、自身に宿るヨーロッパ的ニヒリズムの克服・解放を歌ったアルバムではないかと。

加藤和彦・ヘミングウェイ両氏共に、最期は自死しています。そんなところも、そう思わせる一因です。もちろん、全て私の深読み且つ勝手な妄想です。しかしこのアルバムは、そんなファンの勝手な妄想を許すだけの許容範囲の広さ・深さを備えている一枚ではないでしょうか。

 

 

 

 

YouTubeにアナログ盤の音源が上がっていました。私のCDと「レイジー・ガール」のミックスが違っていました。