【2020年6月20日】ジャミロクワイ「ファンク・オディッセイ」を聴く

数日前リサイクル・ショップで購入した3枚のうちの1枚が、このアルバム「ファンク・オディッセイ」(‘01年)。

 

 

以前にも書いたのですが、ゼロ年前後のCDが今、とんでもない安価になって中古市場に出回っています。このアルバムも、単純に安かったのと、今聴いたらどう聴こえるかなあとの、興味半分で購入しました。

ジャケットも、’70年代ファンクの名盤「フレッシュ!」のリスペクトというかパロディというか、面白いなあと。

 

 

 

ジャミロクワイは、’90年代デビューの、シンガー・ソングライター、ジェイ・ケイさんのプロジェクト。’70年代のソウルやジャズ・ファンクを基調にした、というか、あの時代の音楽をそのまんま復活させたところが斬新でした。

当時日本では、一部の音楽ファンの間で「渋谷系」がよく聴かれていましたが、そんな人たちにも、このジャミロクワイはよく聴かれていたかと。渋谷系のコーネリアスも、ジャミロクワイのフレーズを引用していました。

 

 

私は渋谷系の音楽は好きでしたが、ジャミロクワイは敬遠していました。何ででしょうか?きっと、上手過ぎ・凄すぎ・昔のファンクそのまんま、で、あざといなあと感じたからでしょう。

音楽性は全然違いますが、レニー・クラヴィッツも、同じような理由で聴いていません。

 

 

 

あれから20年経って、偶然に聴いているこのアルバム「ファンク・オディッセイ」。実に堂々と鳴っています。日本の渋谷系のように、下手に批評性が入っていないので、今聴いても当時の印象そのままです。

 

 

今となっては、’70年代も’90年代 (このアルバムはゼロ年代だが) も、普通に並べて聴けます。当時、スティーヴィー・ワンダーやカーティス・メイフィールドの真似っ子と揶揄されていたジャミロクワイですが、今並べて聴くと、そこにはやっぱり、若干の差異を感じます。その、若干の差異、がとても重要なのではないかと、今思います。

 

 

 

最後になりますが、数日前のYahoo!ニュースの記事に、こんなのがありました。引用します。

 

 

…それはこういうことだ。およそあらゆる人間の生産的活動は、誰かがゼロから始めた小さなものではなく、永々と続く歴史のなかで受け継がれてきたものである。個々がやるべきこと、いや、やれることは、そこにスプーン一杯分の調味料を加えることに過ぎない。

 

ーードリアン助川「ゲーテの言葉」より

 

 

 

読んでいて、ジャミロクワイの音楽の事を言っている気がしました。