以前の話になりますが、お酒を呑みに行った時の事。ネットについての話で盛り上がりました。
その話の中で知人の女性が、「うちの子はご飯食べてる時も、友だちとスマホ離さずラインしてて、困ったもんだわー」と嘆いていました。「そんなにいつでもつながっていたいんかなぁ」と。子どもは高校生だそうです。
そう言えば、呑み屋に行っても、カウンターに座って一人でスマホいじっている方を、ここ数年は多く見かけます。
私はよく一人で呑みに出かけますが、一人で行く呑み屋のカウンターというのは、私にしてみると、お店のマスターやママさんとしゃべったり、たまたま隣に座った方としゃべったり、そんな場所ですし、家庭で食べる夕食というのは、父母兄弟と話をする場でした。時代の流れでしょうか。
よく「インターネットは世界と繋がる」と言います。
この私のHPブログも、どこの誰が読んでいるかは分かりませんが、理論上は、地球上のあらゆる方々とつながっています。
ネットは確かに、コミュニケーションのツールとして人類史に残る級の発明だと思いますが、肝心の使う側の意識が、ネット以前から全く進歩していないような気がします。
「リアル」「ヴァーチャル」という言葉がありますが、コミュニケーションに関しては、全てが「リアル」です。(ネット上でのコミュニケーションも、ツールがネットというだけであって、「ヴァーチャルなコミュニケーション」というのはコミュニケーションの性質上、本来ならありえない筈です。)
「今」「ここにいる事」をちゃんと意識出来ない人は、ネットでのコミュニケーションも、単なる自己満足でしかないような気がします。都合が悪くなったら、切ってしまえばそれまでですし。
私も他人とのコミュニケーションは決して得意な方ではありませんが、先ずは目の前の人とは、ちゃんとしゃべれるように心がけたいと思います。
“私はあなたと繋がりたくない” と歌った、今やロック好きでも知る人ぞ知る存在の、ゲイリー・ニューマン。現在も活動しています。私の高校生の時のアイドル (?) でした。
後々のロック・シーンにもフォロワーが多く (有名どころだと、マリリン・マンソンやナイン・インチ・ネイルズなど)、ゲイリー・ニューマンを聴いて救われた人が多くいらっしゃるという事なのでしょう。
この人をはじめとして、当時のUKロック・シーンは、安直なコミュニケーションを拒否した「ディス・コミュニケーション願望」の音楽が、ひとつの主流をなしていました。予定調和のメロディを奏でず、音は冷ややかなシンセサイザー主体の、自身の孤独と向き合う歌です。
そしてそれは、逆説的なコミュニケーション・ソングでした。(後から気付きましたが、歌うという事はそもそも、意識的にしろ無意識にしろ、他者希求の行為ですからね)
画像は「ダウン・イン・ザ・パーク」(’79年) を歌う、ゲイリー・ニューマン。フェイヴァリットの一曲です。