今度の曲は最近の数曲と異なり、あれこれと迷いながら作っています。
それには訳があります。
すぐに出来上がる曲は、大体、直感というか手癖というか、つまり考えずに作るので、速く仕上がる訳です。そしてスムーズに聴こえます。
でもそれだと、気がついたら同じパターンの曲しか作れなくなってしまいます。それは私に限らず、誰もが感じることなのではないかと。
リスナーとして感じるのは、何の疑問も持たずに、ただ自分自身の快感原則に従って奏でている音よりも、時代や、ジャンル (スタイル) や、自分の資質・思想など、考えに考えて奏でられている音の方が、よりリアルだということです。
だから昔から、耳あたりの良くない、重苦しいロックを聴き続けてきたのでしょう。現状のスタイルに満足せずにイノヴェーションをくり返すブラック・ミュージックを、聴き続けてきたのでしょう。
この曲に、たまたま観ていたYouTubeでの、デヴィッド・ボウイの’78年のライヴからのシンセサイザー音とオーディエンスの歓声をサンプリングで挿入してみました。
シンセのフレーズは、「ヒーローズ」収録のインスト・アンビエント曲「センス・オブ・ダウト」から。何とこの地味な曲をライヴで演っていました。
このライヴは、一枚アルバムを作ったらまた次の違うスタイルの音に。それが出来たらまた違うスタイルに。次々と革新的なアルバムをリリースしていた頃の貴重な映像です。
「ロック・スター」デヴィッド・ボウイを観に来ていたオーディエンスは、この静かで重く流れる「センス・オブ・ダウト」」を聴いて、どう感じたのでしょうか?(笑)
面白いのは、ガチガチにコンセプチュアルに作った「ジギー・スターダスト」や「ヤング・アメリカンズ」、「ロウ」「ヒーローズ」よりも、その直後の、そのコンセプトの名残りのような、手癖?で作ったような「アラディン・セイン」「ステイション・トゥ・ステイション」」「ロジャー」の方が、今となっては耳によく馴染むという事実です。
これは前言を覆すということではありません。
「ジギー〜」を作ったから、次に狂ったような「アラディン〜」が出来、「ヤング〜」で悪戦苦闘したからこそ、次にノイジーなホワイト・ファンク「ステイション〜」が出来たのでしょう。つまり、二枚で一枚のアルバムだと思えば、ちゃんと繋がります。紙の裏表のようです。
「アラディン〜」も「ステイション〜」も、単なる手癖や直感ではなく、コンセプトが煮詰まった終わりの終わりだからこそ生み出すことが出来たんだと思います。
自分の曲を、もっと深く・そして広げていくためにも、まだまだ考え抜いてチャレンジしていくことが必要だなあと。留まって、満足していてはいけないなあと。
「センス・オブ・ダウト」を演奏する、ボウイ・バンド。