【2021年4月13日】「エコーズ・オブ・ユース」を聴く 〜 異端者の居場所としての音楽を奏でる「カトラ・トゥラーナ」

 

 

 

「エコーズ・オブ・ユース」は、日本人によるアコースティック・オルタナティヴのオムニバス・アルバム。’83年にリリースされていて、同時期のイギリスのチェリーレッド・レーベルやベルギーのクレプスキュール・レーベルの音に通じる、ニュー・ウェイヴを通過したアコースティック・ミュージックです。

自宅のレコード棚で偶然手にして聴いたのですが、聴き心地が良く、気付いたらAB面通して聴いていました。

 

 

白眉はカトラ・トゥラーナ。アコースティックなチェンバー・ロックを奏でるこのバンド、ボーカルの方が女装でオノマトペ (造語) で自由に歌っていて、当時は超キワモノ的に捉えられていましたが、今聴くと、普通に素晴らしい音楽だと感じます。AB面共2曲目に配置されていて、どちらの曲も当時かなり聴き込んでいたことを、イントロの一音ですぐに思い出しました。

 

 

 

 

例によって昔話ですが (笑)、私の若い頃の日本の音楽シーンは「メジャーな音楽・マイナーな音楽」が、割とはっきりと分かれていました。それぞれ、別のシーンとして捉えられていた訳です。だから、マイナー・シーン ( ?) のアーティストがメジャー・シーンでヒットすると、それまでのファンから「◯◯は終わった」的な評価をされた訳です。つまり良くも悪くも「居場所」意識が強力だったのでしょう。

 

 

そういえば、今では伝説化しているパンク・バンド「ザ・スターリン」も、メジャー・レーベルに移った途端にパンクスから裏切り者呼ばわれされ、ボロカスに叩かれていました。インディーズの音よりもメジャーから出したレコードの方が、明らかにクォリティは高かったんですが、そんな問題じゃなかったんですね。

 

 

ところが今はそうではありません。音楽スタイルのレベルでの細分化は更に進んでいますが、売れている・売れていない、インディーズ・メジャー、に関する拘りは、アーティスト側もオーディエンス側も全くありません。それどころか発信することに関しては、インディーズどころか「個人」にシフトしてきています。以前はカルト人気だった米津さんが「Lemon」で歌謡曲を歌って大メジャーになったけど、「米津は終わった」などと言うファンは居なかったんじゃないかな。

 

 

 

音楽同様、社会もそうです。昔のタブーが今や段々と取り除かれてきています。つまり「異端者」という言葉自体、死語になりつつあるということです。

昔はゲイや神経症や変わったふるまいをする人々は「異端児」「暗黒系」等のレッテルを貼られて、それぞれの居場所を見つけてその中で暮らしていた (表現していた)、そんな時代でした。

 

 

今はといえば、同性愛は個人の嗜好ではなくそういう性質だと証明?され、国によっては婚姻も法律で検討されていますし、昔は心療内科や精神科に通っているのがバレたら「キ◯◯イ扱い」され、村八分?されそうな勢いだった鬱病などの神経症ですが、今は通っていることを普通に人に言える、いつの間にかそんなふうに変わっています。

とはいえ、あまりに多様化・平等に拘り、老政治家のちょっとした失言に食い付くのもどうかと思いますが。。

 

 

 

それで話は戻って、このオムニバス・アルバム「エコーズ・オブ・ユース」。ここには、あの時代「異端」とされていた音楽及び、そんな精神が詰まっています。まさに「異端の感性の居場所」のようなオムニバス・アルバムです。

幾つかの楽曲は、40年の年月が過ぎても色褪せず響きます。

 

 

しつこいようですが、前述のカトラ・トゥラーナ、興味ある方は是非一度聴いて頂きたいなと。YouTubeでもサブスクでも聴けます。