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【2020年7月21日】「祝福の歌」歌を入れました 〜 カラオケの点数と歌唱力の関係

隣近所の住人が居ない隙を付いて (笑)、歌を入れました。

私はアパート住まいなので、おいそれと音を出せません。この曲は、とにかく大きい声で力一杯歌う曲なので、コロナ禍でなかったらスタジオかカラオケボックスに入って歌っています。

以前は、近所の歩いて行ける距離にカラオケの◯◯ッ◯◯があり、アコギやボーカルの練習によく利用していました。(アコギも意外と音が響く)

 

 

ところでこの曲、メロディがシンプルで音程がとりやすく、ちょっとの練習で、多分誰でもすぐに歌えます。(元々、歌いやすさも念頭において作っている)

ところが、あまりにストレートに上手く歌うと、かえって面白く聴こえません。音程もリズムも、揺らぎがないとダメなんだとおもいました。

 

 

 

それで思い出したのは、昔会社でカラオケ大会があった時の事。

機械の採点する点数の上位に賞品が当たる、そんな会でした。たしか10人も居ないぐらいだったので、皆んなでお酒を呑みながら何曲も歌いました。

 

 

初めは、好きなスピッツやオザケン、くるりなどを歌っていましたが、どうも点数が上がりません。そのうち誰かが点数狙いで童謡を歌いました。案の定高得点をゲットしました。

それを聴いた私はハッと閃き (という程でもないけど)、ブルーハーツの「情熱の薔薇」「キスしてほしい」などを、音程とリズムに忠実に歌いました。案の定高得点でした (たしか90点代)。

 

 

 

今思うに、その時歌った「情熱の薔薇」や「キスしてほしい」は、いくら高得点でも、後から聴きかえすと聴けたものではなかったのではと。

あの曲たちは、ヒロトさんの揺れまくるボーカルだからこそ成り立っているんだなと。

 

 

今、カラオケではなく、自分で紡いだメロディと言葉を、自分で作ったサウンドに乗せて歌っている訳ですが、カラオケで高得点を狙うような歌は歌いたくないなあと。。

 

 

 

 

 

ヒロトさんの他にも、カラオケで点数低そうなレジェンドの方々の一部。カラオケの点数=歌唱力、では全くもってないということです。

 

 

【2020年7月20日】岸田繁×鳥飼茜の対談記事を読む

 

 

 

 

先日の朝日新聞デジタルの記事「岸田繁×鳥飼茜『誰か、はよ気づいてや』自分だけのテーマを煮詰める喜びと孤独」を読んで。

岸田繁さんは、ロックバンド「くるり」のフロントマン、鳥飼茜さんは漫画家。

 

 

クリエイター二人が創作について語っています。ちなみに私はくるりは聴いていますが、鳥飼さんの漫画は読んだことありません。

 

 

 

くるりの岸田さんは、側からみると実に器用なミュージシャンです。アルバムごとにいろんなスタイルの音楽に挑戦して、個人としては、クラシック音楽の交響曲まで手掛けています。現在は大学で教鞭までふるっているそうです。

 

 

しかし私がリスナーとして受けるくるりの音楽の印象は、「器用」ではありません。むしろ、不器用で愚直な人が、あの手この手を使って苦心して、自分だけの何かを表現し続けている、そんなイメージでしょうか。

 

 

アルバムは、完成品というよりも、常に、ある過程の報告としてリリースされている、そんな感じを受けます。(もちろん私が勝手にそう感じているだけです)

 

 

 

以下、岸田さんの発言から抜粋。少しでも創作に興味のある方なら、面白く感じるのではないかと。

 

 

せやから、作り手は「これ、なんかいいかも!」って思いついたものを大事にして一生懸命作品をつくっていたら、200年後くらいに誰かが拾うかもしれない。何か時代の大きな変化……それこそリーマン・ショックや今回の新型コロナのような出来事があると、人自体の感受性や感覚、常識みたいなものが変わっていくし、いろんなものの受け取り方も変わっていきますからね。

 

 

せっかく自分で思いついたんだから、そのAメロで描いたものを、たとえば音価(楽譜上で音に与えられた時間の長さ)を倍にしてみるとか違うハーモニーをつけてみるとかして、ひとつの資源を有効に使っていったほうがつながりも良くなるよ、というような話をよくするんです。思いついたアイデアを、もっと大事にしてほしいって。

 

 

 

この対談では、コロナ禍に際しての創作のあり方についても言及されています。

思えば、あの東日本大震災に影響を受けて、傑作「坩堝の電圧」が生まれたことを考えると、今回のコロナ禍でも新しい創造的価値観が生まれて、すばらしい作品を残して下さるかもしれません。

 

 

未発表音源集「Thaw」は、その序章でしょうか。