私のミュージック・ライフの楽しみ方です、ざっくりですが。
「聴く」楽しみ、そして「演る」楽しみ、最後に「作る」楽しみ、です。敢えて加えるなら、ここ数年で「(音楽について) 考える」楽しみも加わっています。
実はこの順序は、そのまま私が接してきた順番になっています。「聴く」は、少年期〜、「演る」は青年期〜、「作る」「考える」は、壮年期〜。
それで、今たまたま少年期や壮年期といった言葉が浮かんだので検索したら、人の一生を少年期・青年期・壮年期・老年期の4つに分けたのは、フロイトと並んで有名な精神科医・心理学者であったユングだそうです。
ウィキペディアによると「ユングは壮年期について内的価値に関心が向かう時期と位置づけた」とあります。それを読んで、まさにその通りという気がしました。
私は40代半ばまで、悩みこそすれ、何も考えずに、状況に右往左往されながら生きてきました。で、そのくらいからようやくいろんな事を自分自身に見立てて考え始めたのですが、あのユングが言っている程なので、この歳になってようやくいろいろと考える、そんな能天気な人はどうやら私だけではないようです。
音楽、特にロックやジャズは、衝動や一瞬の閃きが命、みたいに昔から思われてきました。作る方もそうですし、聴く方も、一目惚れならぬ「一聴惚れ」で、大体の人は聴く曲・聴かない曲、を決定しています。
それはそれで正しいし、私もそうして楽しんできました。ただ、上記の「考える」楽しみを発見してから、そんな聴き方がちょっと変わってきました。好きなミュージシャンの、今までとばしてきた曲やアルバムや曲を聴き返したり、今まで聴かず嫌いだったミュージシャンを聴いてみたり。
その昔、デヴィッド・ボウイはどうして、あの「ロウ」「ヒーローズ」の後、呑気な「ロジャー」をリリースしたんだろう、とか、オザケンの「毎日の環境学」は、何で歌が入ってなくて、あの時期リリースしたんだろう、とか、◯◯は何でアルバムに××みたいなつまらない曲を入れるんだろう、とか。。
そうやって考えて今になって聴き直して、あらためて良さを発見して好きになったアルバムや曲も、多数あります。ちなみに上記2枚も、今では愛聴盤となっています。
あと、自曲で言うと「死について思うこと」は、閃きではなく、メロディも言葉も、考えた末に出来た曲です。それ故にという感じで実に凡庸な曲なのですが、その凡庸さが自分では気に入っています。こういう、アタマで考えた、閃きのない・衝動的でない曲を、もっともっと書きたいなあと思っています。(聴いてもらえるかは別として)
こうやってブログを書いているのも、その「考える」楽しみの一つです。そしてこれは、もしかしたら壮年期特有の現象かもしれません。もし運よくあと数十年生きていられるとしたら、私は既に老年期に突入しています。そうなった時も、こんな事をグダグダと考えているんでしょうか。。まあそう考えるのもまた楽しい事です。
おそらくですが、人間、そのうち考えることに飽きてしまうのでしょう。それは、静かに・安らかに死んでいくために必要な事なのかもしれません。(考えてたらジタバタと苦しみそう)
束の間の人生の壮年期、好きな音楽を、十分に考えて、十分に楽しみたいと思います。
何度も上げている、蝉の画像。こうして木にしがみついて鳴いている蝉は、人間でいうと老年期の終わりの、そのまた終わりです。死の直前が一番活発でうるさい生物は、そういないのではないかと。(実際どうなんでしょう?)