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【2019年8月23日】新曲に歌詞がつきました!〜 「月を仰ぐ人々」

先ずタイトル「月を仰ぐ人々」が浮かんだあと、曲の世界観のイメージが一気に湧き出し、すぐに書けました。ハードでファンキーでポップな音に上手くマッチしてひと安心です。

トラックを作ってる時点で、果たしてこの曲に言葉が乗るんだろうかと心配していたのですが、なんとかなるものです。

 

 

この歌詞は、「エリザベート・ワルツ」に続く、ドッペルゲンガー物でもあります。誰もが経験ある事なんじゃないかなあと、書いていて思ったりしました。久しぶりにメロディ・ラインの起伏が大きい曲になり、仮歌を入れたら難しくて、これは練習しないといけないと。

完成に向けてがんばります。

 

 

 

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月を仰ぐ人々

 

 

花に群がってる   蜜蜂は

彼方へと種を   運ぶために飛んでく

 

空を仰いでる   君や僕の毎日

繋がる何かを   求めて彷徨ってる

 

 

クルクル転がって   雨嵐大雪や

日々の糧求めて   日照りの夏の日や

気付くと縛られて   身動きとれなくて

縛っている奴見たら   自分だった!

 

 

※満ちた月   微笑んで   語りかけてくるような

そんな夜   君もまた   夜空仰いでるといいな

 

 

君はいつでも   月の話をする

今日は双子座に   下弦の月見えると

 

 

いつでも何処でもここでも   息を吸う時間止めても

世界はクルクル回って   明日も毎日来る来る

いつでも何処でも誰かに   見つめられている気がして

見てる奴を捕まえたら   自分だった!

 

 

※くりかえし

 

 

時が過ぎ   月は欠け   空は暗くなったけど

でも僕ら   知っている   またいつか   満ちる時を

 

 

 

 

 

ある夜に散歩してた際、公園の灯りが満月に見えて、思わず写メった画像です。

こんなところで使う事になるとは。。

 

【2019年8月22日】対談「定義=『生きている』」を読む 〜 「時間」の捉え方について

 

 

養老孟司さんと池谷裕二さん (お二方共、著名な学者さん) の「ほぼ日刊イトイ新聞」に掲載されていた対談「定義=『生きている』」を読みました。

 

 

自曲「ファンク」(仮題) を作るにつれて、以前にも書いた事がある、過去から未来への時間の流れに沿って流れていく音楽 (ヨーロピアン) と、「今」が延々と続いていくような音楽 (アフリカン) について調べてみようとふと思い立ち、ネット・サーフィンをしていた際に偶然に見つけたものです。

この対談は、5月15日に「ほぼ日」から発行する絵本「生きているのはなぜだろう。」を巡っての対談で、全14回とボリュームがありますが、とても読みやすくて一気に読了出来ました。

 

 

 

多岐に渡った内容で、とても読みやすく且つ読みごたえがありました。

ここでは「時間」について言及している箇所を引用します。

 

 

 

「理論的に時間がほんとうに存在するかは別として、

でも『なぜ私たちの心は時間を感じるか』というと、

それは、記憶があるからですよね。」(池谷)

 

「時間が人間のように

しっかり流れてるのは人間だけ、ということは、

『時間というものは、人間の脳にしか存在しない』

ということです。

つまり、時間は人間だけがもつ幻想である、

ということになります。」(池谷)

 

「だから、時計ってひじょうに

意地の悪いものなんですよ。

『ここに時間というものがありますよ』って、

絶えず人に叩き込んでくるでしょう?

にもかかわらず、いま言っていたように、

ぼくらは時間をぜんぜんわかっていないんです。」(養老)

 

「時間と空間を軸にものごとを認知している。

そして、記憶があるから、

ものごとを前に進む方向でしか考えられない。」(養老)

 

 

 

この対談を読んでいて、時間が一方的に「流れている」のは、人間だけが、それも現代人だけが感じる幻想なんじゃないか。そんな気がしてきました。

実は時の流れなんてものはなくって、常に「今」なんじゃないか?そう感じる私は、だから、ファンクやレゲエなど、アフリカンたちが鳴らす音にリアリティを感じるのかなあと。どちらがいいとか秀れているとかではありません。

 

 

 

仏教 (禅) では、「今、この瞬間を生きなさい」と説かれています。禅の思想は、アフリカンたちが奏でる音楽に似ていると、私は感じますが、如何なものでしょうか?